サーバントリーダー という言葉をお聞きになったことがあるかもしれません。奉仕するリーダーというような意味ですが、カリスマと対極にあるようなリーダー像ですね。(そうでもない面もあると思いますが、ここでは細かく突っ込まないことにします。)
実は、リーダーの比喩としてサーバント(召使)を使いはじめたのは、私が世界で最初ではないかと実は思っています。Robert Greenleaf がそのことをテーマにした本を出版した提唱したのが確か1977年ですから、それよりは前です。学校の生徒会のリーダーとして、「私は皆さんのサーバントになる」と演説したのが(おそらく)世界最初です。以来30数年間、自分自身サーバントリーダーでありたいと、また常にそうあるべきだと行動を律してきたと自負しています。また、道徳的勇気を持てと説くMoral Leadership 論に感化されたのが80年代で、常に道徳的に正しいことをすることを信念としてきました。また、ビジョンを持つことが大切だし夢を語ることも大切だというリーダー像にも感化されてきました。そして、それらを実行してきたと自負しています。
しかして、結果として私はそのようなリーダーになったのだろうか?あるいは、そのようなリーダーで(その当時ですら)あったのだろうか?振り返ってみると、周りにきいてもリーダーであると思っているより、むしろただのサーバントであると考えている人が多いように思うのです。昔はリーダーだったのにどうして今は違うのだろうかと思って、数十年ぶりの同窓会で同窓生に聞いてみると、「あれ?生徒会やってたんだっけ?」と憶えていない人の多いこと多いこと。昔も今もリーダーとは認められていないんだなと、情けない思いをしました。なぜだろうか?悩んだあげく出した私の結論は、次のようなものです。
今でも、組織の長たるリーダーは、サーバントリーダー、道徳的勇気を持ったリーダーであるべきだと信じています。ただし、その組織の長になるためには、極端ないいかたをすれば「嫌われ者」の側面もないと競争の中を生き抜いてリーダーとして選ばれることもないのだと考えます。戦士の顔を持ったリーダー像と賢者の顔をしたリーダー像はお互い矛盾するように聞こえます。でも、これを両立させつつ、組織の階段を登る時には戦士の顔を見せ(必要に応じて)、登りつめたときには賢者の顔を見せるのが、サーバントリーダーなのでしょう。山のふもとで賢者の顔をしているだけでは山に登れないということかもしれません。 PMCの分科会で、組織の中の「嫌われ者」の議論をした時に、「いいひと」が出世するのはあまりみたことがないとか、「嫌われ者」がトップになってるよね、といった話がでていました。基本的に、「いいひと=サーバントリーダーで、私利私欲を捨てて奉仕し、倫理的道徳的な勇気を持つひと」がトップリーダーになって欲しいと思います。しかし、「いいひと」と「いつも好かれる人」は違いますね。いつも好かれるだけでは、そもそも引き上げてもらえないし、組織の階段をのぼっていくことができないのでしょう。「いいひと」も必要な時には「嫌われ者」にならなければ、組織の中で大きな仕事ができるリーダーにはなれないのではないでしょうか。
サウイフモノニ ワタシハナリタイ のか?
それはまた別の話。